夏休みの間、海、山へ行く以外に詩も2,3編書くつもりだったが結局、1編も書けなかった。
詩が書ける、書けないってどういうことなんだろ。毎日同じように物を見て、感じて、笑ったり泣いたり(?)してるんだけど、詩のタネがふわっと引っかかるときもあれば、ことば一つ掬えない日もある。
どうも詩は書こうとして書けるものではない気がする。
書こうとして書けないわけじゃないけれど、そうやって書いた詩は、どうも胡散臭いにおいがする。
書けないときはどうするか。
読む。ひたすら読む。好きな詩人の作品を、浴びるほどに。
その海に身を任せていると、そのうちポコッと浮いてくる。詩が、思いがけない姿で。
そんなふうにして生まれたのが、詩集「ア」に収めた
「そして」という作品。
そして
いきをしていることにきがついて
ハッとして
ハッとしてもなにもかわらないことに
ハッとして
さらのうえのオムレツののこりを
スプーンにのせ
くちのちかくにはこぶと
くちは
ひらくのだ
きまっていることのように
谷川俊太郎氏の「朝のかたち」という文庫版の詩集をその日は朝から読んでいて、ふらっと入った食堂で、オムレツを食べているときに、ポコッと浮かんで、あわてて手帳を開いて書き付けたものだ。最初に書き付けた、そのままの形。
うまく言えないけど、「書けた」という感じが残ったので、初稿のまま載せた。
詩集への反応の中で、2,3の、あんな詩が書けたらな詩人から、「そして」に対して肯定的な返事をいただいた。うれしかった。ここまで手さぐりだったけど、なにか今後の方向性がほの見えた感じがする。
ついでに言うと、谷川さんの「芝生」という作品も、そんなふうにふっとわいた作品じゃないかと思う。いわば、自分が導体となって、何かに突き動かされて、書いたというよりできちゃった詩。
そして私はいつか
どこかから来て
不意にこの芝生の上に立っていた
なすべきことはすべて
私の細胞が記憶していた
だから私は人間の形をし
幸せについて語りさえしたのだ
(谷川俊太郎「芝生」
今日で8月も終わり。台風16号の過ぎ去った後だからか、やけに暑かった。
きょうみつけた詩。
時間調整の喫茶店で、持ち歩いている文庫本の「空の青さをみつめていると」(谷川俊太郎�機貌匹鵑任い燭蕁△海了蹐�あった。
<接吻>
彼女は他の男の匂いをさせて帰ってきた
そこで僕は彼女に接吻できなかった
それから二人は太陽の熱さの残っている
ふとんに入った
その日は一日いい天気だった
それでも僕は接吻できなかった
彼女は自分の胸をぴったり僕の胸に押しつけた
それでも僕は出来なかった
彼女が別の女のように思えた
ふたりの会う前のようだった
まだ僕が彼女のあそこを知らないで
日曜日にはひとりで釣りに出かけた頃のようだった
あの小さな沼のそばで冬の薄日を眺め
誰かに会うのを待っていた頃のようだった
僕はおそろしかった
それでも僕は出来なかった
そうしていつか眠りこんだ
大きな草原のような夜だ
いつまで駆けてもいつまで駆けても
その文庫本にはたくさんの詩があるのに、この詩が他の詩より一歩深くおれに入ってきたのはなぜだろう。
生々しさ、それだろうか。
「接吻」「あそこ」・・・さっぱりしたエロスの味だろうか。
まだ「少年」である青いやるせない心の描写だろうか。
おそらく、それら全部が入り混じり、ぴったりおれに寄り添ってきたのだ。おれは分析せず、ただ味わったにすぎない。